へーベルハウス建築記@神奈川県川崎市

神奈川県川崎市にDINKs夫婦が旭化成へーベルハウスの家を建てた記録と、その後の生活日記

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東北一の宮巡拝~岩代~越後編

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2013年に実施した東北方面一の宮巡拝記録の2回目。
今回は岩代国と越後国の一の宮を訪れます。

前回までは…

www.colonel-zubrowka.com

朝一で川崎の自宅を出発し、上記の都々古別神社を参拝し、その後そのまま会津まで移動しました。

 

 

岩代国一の宮 伊佐須美神社

岩代国とは厳密には律令国ではなく、戊辰戦争後に陸奥国から分離された比較的新しい区分です。
そのため、この岩代国の一宮については新一の宮に分類されます。

詳しくは…

ja.wikipedia.org

というわけで、元々この岩代国も陸奥国だった都合上、この伊佐須美神社は陸奥国の二の宮だったものが、岩代国が分離したため岩代国で最も社格が高いということで岩代国の一の宮ということになったようです。

 

場所

場所はまさに会津。会津若松城から車で15分くらいですかね。

 

社史と祭神

社伝によると、凡そ二千有余年前第10代崇神天皇10年に諸国鎮撫の為に遣わされた大毘古命とその子 建沼河別命が会津にて行き逢い、天津嶽(現・新潟県境の御神楽嶽)において伊弉諾尊と伊弉冉尊の祭祀の礼典を挙げ、国家鎮護の神として奉斎した事に始まると伝えられます。

我が国最古の歴史書とされる『古事記』には「大毘古命は先の命のまにまに、高志国に罷り行きき。ここに東の方より遣はさえし建沼河別、その父大毘古と共に相津に往き遇ひき。かれ、そこを相津と謂ふ。ここを以ちて各遣はさえし国の政を和平して覆奏しき。ここに天の下太平けく、人民富み栄えき。」とあり、“会津”地名発祥の由来と創始を共にしております。

その後、博士山、波佐間山(現・明神嶽)と会津の山々を巡り、第29代欽明天皇13年(552)に高田南原(現・境内高天原)に遷られ、同21年(560)現在の宮地に鎮座されました。以来千四百有余年、大毘古命、建沼河別命 父子も合祀し、四柱の大神を伊佐須美大神と称え奉りお祀り申し上げております。

創始以来、古代北限の地に奉斎され悠久の歴史を培ってきた当社は、鎮護神として朝野の崇敬篤く、様々な社格や神階の奉授がなされました。

『貞観格式』において“正一位”の神階奉授の記録があり、『延喜式「神名帳」』には朝廷の名神祭に与る“名神大社”に列せられました。朝廷を含めて地方では“奥州二宮”と称えられ、開拓や東征が進むにつれ変遷があったとされる一宮に対して、古来揺るぎ無い不動の崇敬を得ておりました。寛政11年には、第119代光格天皇より大神宮号宣下を受け“伊佐須美大神宮”と号し、現在でも扁額や御神札に名残を留めております。

また、会津文化の生みの祖神でもある当社は“会津総鎮守”とも称され、会津蘆名家や会津藩祖保科正之公をはじめ御歴代藩侯には殊の外篤い信仰を寄せられ、社殿の修改築や社領、宝物等数々の寄進が多くなされました。

降って明治維新以降戦前に至るまでは、“国幣中社”として官祭に与り、戦後は神社本庁の別表神社に列せられております。現在では、当地方の古大社として“岩代国一之宮”として、全国より多くの巡拝者が参拝に訪れております。

 

公式ホームページより:

isasumi.or.jp

主祭神
  • 伊弉諾尊(いざなぎのみこと)
  • 伊弉冉尊(いざなみのみこと)
  • 大毘古命(おおひこのみこと、大彦命)
  • 建沼河別命(たけぬなかわわけのみこと、武渟川別)

 

境内

では早速境内へと進んでいきます。

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なぜか巨木が切り倒されたものが大事に展示されています。

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参道に入ると鮮やかな朱色の明神鳥居が現れます。
朱色というより真っ赤ですな。

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途中でこんな掲示を見つけました。
どうやら本殿が2008年に焼失したそうで、再造営のための寄付を募っているとのこと。
再造営予定の社殿がかつての出雲大社並みの高層社殿になるのだとか。

これ実現したら凄いですね。寄付してきました。

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って期待していたのですが、ホームページにこの神殿は中止になって、焼失した社殿の再建という計画に変更になったようですね。

isasumi.or.jp

 

参道の先には立派な楼門があります。

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ここから先の境内は仮社殿があるだけで、当時は寄付を募るテントが張られている状況でした。

摂社として、菅原道真公をお祀りする菅原神社がありました。受験シーズンはきっと凄い参拝客でしょうね。

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御朱印

こちら、伊佐須美神社の御朱印は非常に特徴的です。バクザン先生(榊莫山)もびっくりな前衛的な御朱印ですね。
肝心な印の部分が切れているのはご愛敬。

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越後国一の宮 彌彦神社

会津を出た後、日本海側へ抜けるためせっかくなのでと、越後の国で一泊しました。

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越後国

越後と言えば、水戸黄門が「越後のちりめん問屋の御隠居」なんて身分を偽っていますが、何よりも軍神上杉謙信公ですね。

とはいえ、春日山城は遠い(春日山城は上越市)ので、今回は目的地の弥彦神社だけとしました。
上杉謙信の上杉家は、越後から徳川家康によって会津→米沢と改易されているので、上杉神社は米沢市にあります。

今回の旅、流石に福島~会津~新潟となかなかな距離だったので、新潟で一泊して翌朝参拝としました。

 

場所

新潟市から高速で30分かからない位のところにある弥彦山にあります。上越新幹線で言う燕三条駅あたりですね。
新幹線に乗っていると見える一際高い山がそれです。

 

社史と祭神

彌彦神社の御創建について、社伝によると天香山命は第六代孝安天皇元年(西暦紀元前392年)二月二日に越の国開拓の神業を終えられ神去り坐して神劒峰(弥彦山)に葬られ、御子である第一嗣・天五田根命が廟社を築き奉祀した事に始まります。下って第十代崇神天皇の御代(御在位:紀元前97~30年)に、第六嗣(天香山命より七代)建諸隅命が勅を奉じて社殿を造営して以来、御歴代の天皇の勅による社殿修造がなされ、第四十三代元明天皇和銅四年(711)には勅により神域の拡張と神戸及び神領の境を定めたと伝えられております。
よって彌彦神社は御創建から二千四百年以上の歴史を有する神社です。

彌彦神社が初めて国史に見えるのは『続日本後紀』巻第二・仁明天皇天長十年(833)七月戊子条に

越後國蒲原郡伊夜比古神 名神に預かる 彼の郡旱疫有る毎に雨を致し病を救うを以てなり(原漢文)

 

とあり、同巻十二・承和九年(844)十月壬戌条では従五位下、『日本三代実録』巻第五・清和天皇貞観三年(861)八月三日条には従四位下の神階奉授の記述が見えます。また、八世紀頃の成立とされる我が国最古の歌集『万葉集』巻十六には

いやひこ おのれ神さび 青雲の 棚引く日すら こさめそぼふる
いやひこ 神の麓に 今日らもか 鹿の伏すらむ 皮服(かわころも)着て 角つきながら

と、伊夜日子大神様の神々しさを詠った二首が納められており、延喜五年(905)奏進の『延喜式』巻十では越後国で唯一名神大社と記載され、また越後の一宮として朝廷から篤い尊崇を受けました。
このように八~九世紀頃には、遠く離れた都にも彌彦神社は顕著なる御神威ある神社として知られていたことが窺えます。

 

鎌倉時代以降では源頼朝が三千貫の神領を寄進し、南北朝時代には後醍醐天皇が「正宮位大明神」の宸筆の勅額を御奉納になるなど、古代以来中央にも聞こえる地方の大社として、社殿の造営修築を繰り返し、七十五名もの神官が神事祭礼を勤めていました。室町時代の作と伝えられる境内の絵図には、丹塗りの壮麗な社殿群が描かれ、当時の繁栄ぶりが偲ばれますが、応仁の乱が地方にも波及すると、社殿をはじめ御鎮座以来の記録・宝物の多くが焼失、神領も押領されるなど一時疲弊したものの、越後を領有した上杉家は三千二百石余の神領を寄進し社殿を修造・退転した神事の復興をはかりました。しかし上杉家の会津移封に端を発する越後国内の騒擾から再び神領のほとんどを失い、恒例の神事もままならず、七十五名の神官は二十五名にまで激減し混迷を極めました。

 

江戸時代に入ると、徳川家康からの社殿修理料三百両の奉納をはじめ、三代将軍徳川家光以降歴代将軍による朱印地五百石の安堵、五代将軍徳川綱吉寄進の社殿修繕(元禄十六年(1703)完成)など、戦国時代からの混乱が漸く解消し、安定を迎えます。この間、元禄五年(1692年)頃より吉田神道の神学者である橘三喜に師事し神道の研鑽を深めた彌彦神社神主・高橋左近光頼は、仏教化された神社の在り方をよしとせず、社僧・供僧を追放するなど神社内の仏教色を一掃し、神官と家人の仏葬を廃して新しく「神祇宗」を興すなど大々的な神仏分離を断行しました。この行動は社僧らによって寺社奉行への訴訟に発展し、その結果違法とされ全ての復旧を要求され失敗に終わりましたが、神仏分離を明治維新から遙かに遡る元禄期に先行した事は特筆すべきことであります。
維新によって江戸時代が終焉し明治に入ると、神社は国家の宗祀として位置づけられ、明治四年(1871)五月に国幣中社に列格し、国家管理のもと従来の祭典神事に加え近代神祇制度によって整備された古代からの祭祀が復活、斎行されるようになりました。明治十一年(1878)九月十一日には明治天皇の御親拝を仰ぎ奉り、江戸時代以来の民衆の参拝も隆盛し、社頭の整備拡充が図られておりました。しかし、明治四十五年(1912)三月十一日、門前町で発生した大火に罹災し、善美を極めた御本殿以下の社殿が烏有に帰しました。越後一宮の焼失は当時の越後人にとって非常に大きな衝撃を与え、県内はもとより遠く海外からも復興への志が寄せられ、大正五年(1916)、旧に倍する荘厳且つ壮大なる社殿が再建されました。

大東亜戦争後、神社は国家管理を離れて宗教法人となり、昭和二十一年(1946)、多くの神社とともに神社本庁包括下となりました。昭和四十七年(1972)五月二十三日には昭和天皇・香淳皇后の御親拝を、同五十六年(1981)には皇太子同妃両殿下(今上天皇・皇后両陛下)の御参拝を仰ぎ奉り、翌五十七年(1982)には上越新幹線開通を記念して日本一の大鳥居が奉建されました。

彌彦神社は崇神天皇御代の御創建から現在に至るまでの二千四百年以上に亘り、天皇陛下を始め皇室の御安泰と御繁栄、国家国民の安寧と限りない繁栄のために御神威の御発揚を祈念し続け、伊夜日子大神様への感謝と、魂と生命に活力を与えて下さる事を祈る方々の参拝はますます盛んとなり、年間百四十万人が季節を問わず御神前に額づいておられます。

※彌彦神社は古くは「伊夜比古神社」と記され、伊夜日子・伊夜彦・彌彦などとも表記されました。
現在は「やひこ」と言い習わされておりますが、歴史的には「いやひこ」と読んでおりました。

 

公式ホームページより:

www.yahiko-jinjya.or.jp

 

主祭神
  • 天香山命 (あめのかごやまのみこと)

 

境内

駐車場から境内へと入ります。

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長い参道を歩いていきますが、きっと暗いときに来ると雰囲気があるんだろうなという参道です。

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やっと神門が見えてきました。

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結構な距離を歩き、やっと拝殿のある広場に到着。

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残念ながら本殿はほぼ見えませんが、どうやら三間社流造の本殿なんだそうです。
いやはや、流造はホント多いですね。

 

奥の宮

社務所で、山頂に奥の宮があってロープウェイで行けるよと言われたので、行ってみることにしました。上がってすぐだということだったので。

しかし、天候に恵まれずせっかくの景色が…

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山頂に到着すると、レストハウスみたいな施設になっていて、お花畑がありました。

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天気が良いと、日本海側に佐渡島とかも見えるそうです。
全然見えなかったけど…

奥の宮に行こうと思ったらこんな看板が。

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なんだか嫌な予感がしましたが…

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ロープウェイ上がってすぐなんて大ウソつき!
ハイキングコースみたいな山道をひたすら歩きます。ただのスニーカだよ…

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やっと見えてきました。結構歩きました。アップダウンが割とあるので、ヒールとかで行くと悲惨かもです。

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というわけで、ロープウェイからすぐという割には結構歩くはめになりながらも奥宮も参拝。

同じ道を戻り、ロープウェイを下り、表参道側を見てから次の目的地に向かいました。

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御朱印

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まとめ

今回は、岩代国の新一の宮である伊佐須美神社と、越後国一の宮の彌彦神社でした。

どちらも歴史を感じる立派な神社でしたが、伊佐須美神社は社殿が火災で焼失してしまったので、再造営が終わったらまた是非参拝に伺いたいところです。

 

次回は、このまま日本海沿いを北上して出羽の国へと至ります。

 

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