へーベルハウス建築記@神奈川県川崎市

神奈川県川崎市にDINKs夫婦が旭化成へーベルハウスの家を建てた記録と、その後の生活日記

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東北一の宮巡拝~陸奥国 都々古別神社編

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今回は一の宮神社巡拝記録の内、2013年に実施した東北一の宮巡拝の記録を今回は綴っていきます。

一の宮巡拝?という方は以下を参照くださいな。

www.colonel-zubrowka.com

 

 

 

東北の一の宮

東北はかつては蝦夷(えみし)と呼ばれ、大和朝廷の勢力下におかれるまでは未開の地扱いだったため、関東以西程細かく国が分かれていなかったりします。

  • 津軽国~今の青森県
  • 出羽国~今の秋田県から山形県北部の日本海側
  • 陸中国~今の岩手県と宮城県
  • 陸奥国~今の宮城県南部から福島県の太平洋側
  • 岩代国~今の福島県西部会津周辺

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これら東北の一の宮を2013年に巡拝した記録を今回綴っていこうと思います。

一回で書くと長くなる(そして書いていて途中でダレル)ので、今回は陸奥国編。

 

陸奥国一の宮 都々古別神社(馬場)

川崎から首都高経由で東北道を北上して最初に訪れたのは、陸奥国一の宮である都々古別神社(馬場)です。
ツツコワケと読みます。

この都々古別神社ですが、同じ一の宮として二か所あり、字馬場の方を上社、隣の字八槻の方が下社とされているようです。ただ、延喜式に載っている陸奥国一の宮の都々古別神社はいったいどっちを指すのかはよくわかってないそうで、現代ではとりあえず両方一の宮ってことになっています。どっちかわかんねーからとりあえず両方一の宮でいいんじゃね?というおおらかさは好きですね。

詳しくはこの辺を。

ja.wikipedia.org

 

場所

東北道の白河ICを降りて30分くらい走らせると到着します。

 

社史と祭神

都々古別三社の一社で、江戸時代頃には「近津三社」(馬場都々古別神社・八槻都々古別神社・下宮近津神社)と総称された“上宮”にあたります。
かつて「東夷」を鎮定した日本武尊(ヤマトタケル)が、初め建鉾山(白河市)に鉾を祭り、のちに大同二年(807年)坂上田村麻呂が近世棚倉城の地に移したと伝えられます。寛永元年(1624年)に棚倉藩主丹羽長重が棚倉城を築城するため現在の地に神社を遷宮しました。
祭神は味耜高彦根命と日本武尊を祭ります。
境内には樹齢数百年の古木が茂り、棚倉城地より解体移築されたと伝えられる流造の本殿や、向拝一間に唐破風を持つ拝殿は荘厳です。また棚倉町出身の近代画家勝田蕉琴の筆塚もこの境内にあります。
社宝には鎌倉時代源義家が寄進したとされる長覆輪太刀二口(国重文)や、赤糸威鎧残闕(国重文)などがあり、数多くの貴重な文化財が保管されています。

 

棚倉町公式ページより:

www.town.tanagura.fukushima.jp

今まで紹介してきた歴史ある一の宮神社としては珍しく創建された年がわかっています(といっても現在地へ移築された時期ですが)。

これはあくまで私の考えですが、大和政権時代には東北には非大和政権の国があり、東征で大和政権の支配領域が東北に及んだ際に、大和政権の文化である現在の「神社」が東北に創建されていく中で、東北地方古来の宗教的な意味を持つ場所が神社へと融合されていった一環として、この都々古別神社は成立したんじゃなかろうかと思っています。そういう意味では、本当の創建はいったいいつなのかは不明ですね。

 

主祭神

味耜高彦根命(あじすきたかひこねのみこと) - 創祀時の主祭神

相殿神

日本武尊(やまとたけるのみこと) - 大同2年(807年)の合祀とされる

 

境内

ちょっとだけ小高い丘になっており階段で境内へと上がっていきます。

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進んでいくと門があるので、そちらを潜って拝殿へ。

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森の中で静かな境内です。

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拝殿は銅葺き屋根の立派な建物です。

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すっごいピンボケしてますが、陸奥国一の宮とあります。

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本殿はちらっと見えます。
こちらは、三間社流造となっています。東北では珍しい桃山時代の建築物なんだそうですよ。

 

御朱印

御朱印をいただき、神主さんからこの馬場と次に訪れる八槻のお話を伺いました。実は馬場の方が元々一の宮扱いだったけど、八槻の方が抗議して両方とりあえず一の宮ってことになったというお話はここで伺いました。

御朱印はこんな感じです。

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陸奥国一の宮 都々古別神社(八槻)

お次は馬場に対して下社扱いされる八槻の方の都々古別神社へ向かいます。車で30分かからない位の距離感ですね。

 

場所

 

社史と祭神

馬場の方とどっちが一の宮かで揉めたことがあるので、祭神とかも一緒です。

都々古別三社の一社で、江戸時代頃には「近津三社」(馬場都都古別神社・八槻都々古別神社・下宮近津神社)と総称された“中宮"にあたります。
縁起によれば、日本武尊(ヤマトタケル)が八溝山の「東夷」の大将を討った際、守護として示現した三神が建鉾山より箭(や)を放ち、箭の着いた場所を箭津幾(やつき)とし都々古別神社を創建したのがはじまりといわれています。
祭神は味耜高彦根命と日本武尊を祭り、農耕神としての性格が古く、のちに武神が加わったものと考えられます。その年の新籾を藁苞に入れて(ツトッコという)奉納し、その折他のツトッコをいただいて帰る風習(霜月の大祭)や御田植の神事(旧正月6日)等の存在は、農耕神の性格を物語ります。
社宝には銅鉢(国指定重要文化財)、木面十一面観音立像(国認定重要美術品)など数多くの貴重な文化財が遺されています。

 

棚倉町公式ページより:

www.town.tanagura.fukushima.jp

主祭神

味耜高彦根命(あじすきたかひこねのみこと) - 創祀時の主祭神

相殿神

日本武尊(やまとたけるのみこと) - 大同2年(807年)の合祀とされる

 

境内

鳥居の前の巨大な石灯篭があり、その辺が駐車場になっています。

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これは当時乗っていたシトロエン。懐かしい…

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こちらが境内への入口になる鳥居です。

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神事についての説明掲示板があります。

 

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馬場と違って平坦な土地で、階段を昇ることもなく境内へと続きます。
こちらは門とかは朱塗りで鮮やかです。

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こちらも奥州一宮!と馬場よりもでかい神額が掲げられています。

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拝殿の建築様式も馬場とほぼ同じですが、こちらの社の方がどちらかというと観光客向けに整備されている感はあります。

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本殿も同様に流造。ただ、こちらは千鳥破風(ちどりはふ)がついているのが馬場との違いですね。
え?千鳥破風ってなに?って。屋根の途中に三角の小屋根がついてますでしょう?これです。詳しくはググってくだされ。

 

こちらの社務所も割と立派でした。

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御朱印

こちらの神社に訪れた2013年は、女性神職(巫女じゃないよ)が奉職されており、御朱印もその女性神職の方が書いてくださいました。

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陸奥国一の宮 石都々古別神社

馬場と八槻の二つの都々古別神社に対してもう一つ、都々古別神社があります。こちらも割と近くにあるのですが、ちょっと名前が違い「石都々古別神社(イワツツコワケジンジャ)」と言います。

 

場所

元々八幡山と呼ばれていた山の上にある神社です。

 

社史と祭神

当社は福島県石川町の中央、通称八幡山に鎮座し、境内は三芦城(石川城)の跡地として県及び町の史跡に指定されており、古くより山岳信仰の場として山そのもの、又参道両側に点在する磐境(巨石)が信仰の対象として、土着の人々に崇敬されていたと思われます。
 当社は延喜5年(905)にまとめられた「延喜式神名帳」記載の白河郡七座の一つに数えられている古社であり、また陸奥ノ国一ノ宮にも数えられる。江戸時代には「石都八幡宮」と呼ばれていたと言われており、福島県棚倉町の都都古和気神社は最初は一つだったという話もあり、当社と福島県古殿町の伊波止和気神社で近津三社にする説もある。
 石都々古和氣神社の創始は地方の伝承によれば、飛鳥時代(614-669)に藤原氏の祖、大臣鎌足(藤原鎌足)が「味鋤高彦根命」を「筒子山」に祀ったのが始まりとされており、延暦年中(782~806)には福田利人が祠を営んで、「味鋤高彦根命」を祀り、康平5年(1062)に初代福田安芸守源有光(初代石川有光)が八幡山に、三芦城を築いた。築城中、当社を假に高田五里石の千勝大明神の地(当社の東400m程の近津神社)に遷座した。治暦2年(1066)9月これを旧社に還遷し、石川有光は陸奥国平定の際に源頼義が勧請した源氏の氏神である石清水八幡宮の御分霊(大国主命・誉田別命)を当社に合祀し、そのとき石川有光の末子有祐が外祖父神祇職吉田(卜部)兼親朝臣の養子となり、吉田左衛門尉(初代神官吉田家当主)と名を改め当社神官となった。

 

公式ホームページより:

http://www13.plala.or.jp/seihuukan/yuisyo.htm

主祭神

味耜高彦根命(あじすきたかひこねのみこと) - 創祀時の主祭神

相殿神

大国主命(おおくにぬしのみこと)

誉田別命(ほんだわけのみこと 八幡神)

 

境内

山の上の神社ということで、まあ予想通り階段ですよ。

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階段を昇っていきます。

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これ、上から下を眺めるとこんな感じです。

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こちら、社史にもありましたが、元々お城なので城址でもあります。

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昇って昇ってやっとたどり着きました。

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本殿は囲いがされています。こちらの本殿も流造です。

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ヘロヘロになりながら参拝しましたが、アジサイが綺麗に咲いていました。

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御朱印

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まとめ

まあ、まとめるほどのこともないのですが…

奥州と呼ばれる現在の福島県あたり(会津は除く)の一の宮ですが、いずれも都々古別神社を由来としているようで、延喜式に書いてある都々古別神社が実はどれだかよくわかってないので、由緒のあるやつ全部とりあえず一の宮ということにしたという何ともざっくりな所ではあります。

ご由緒には日本最初の征夷大将軍でもある坂上田村麻呂やら、東征をした日本武尊やら、もう少し時代が下ると源氏関係など、東北を感じさせる歴史と密接ですね。

私としては大和政権に滅ぼされた東北の知られざる国なんかが今後詳らかになっていくことを望んで止みません。

 

この旅ではこの後、岩代(会津)、陸中(岩手、宮城)や出羽(山形、秋田)にも足を延ばしているので、近々続きを書いたらまた公開します。

書きました↓

www.colonel-zubrowka.com

 

 

 

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