私、Twitterやブログなんかでの家造り側の情報発信系でよく目にする「豊かな暮らし」ってキーワードが、実はちょっと苦手なんです。
そういうキーワードを使っている実務者の方などを批判するつもりも、Disるつもりも無い点はご承知おきください。
豊かさって何?
豊かさというのは人間の永遠の課題なのだと思います。
億万長者なら物質的な豊かさに事欠くことはないでしょう。お金で買えるものは何でも手に入れることができます。
プライスレスなんて言葉も流行りましたが、貧しい国のスラム街で小さな子供たちが近所の歳の近い子供たちと粗雑なボールで楽しそうに遊んでいる姿は、その瞬間を切り取ればその子供たちにとって豊かな時間とも言えるかもしれません。
自分は不幸だと思えば、小さな不幸の種を見つけていくらでも自分自身が不幸だと思うことは可能です。
隣の芝は青く見えるなんて言葉もありますが、自分にないものを持っている人を見ると羨ましく思うのは人のサガだと思います。それをもって自分は不幸だと思うのか、自分もそれを手に入れようと努力するのか…(努力の方向を間違うと奪うという発想になりますが)
豊かな暮らし、それはその人の価値観を満たせる暮らしなんだろうなと私は思います。
Nothing either good or bad, but thinking makes it so.
良いか悪いかというのは、考え方がそれを決めるのだ。(ズブロッカ的意訳)
ハムレット 第2幕第2場
人によって感じ方は違います。
建築に関して言えば、永遠の論争である持ち家か賃貸かの話にしても、結局はその人の価値観にどちらが適うかというお話です。
家を自分で所有するということに価値を見出せる人にとっては持ち家は魅力ですが、同じ場所にずっと住むことに価値を見出せない人であれば、賃貸で好きな時に好きな所へ引っ越せる生活の方が魅力的でしょう。
自分にとって何が大切で幸せであるのかということを知っている人が、実は豊かな生活に一番近い位置にいるのかもしれません。
建築家の言う豊かな暮らし
「豊かな暮らしを実現するための住まい」という基本的な方針は何ら間違っていないと思っています。
ただ、その豊さって誰にとっての豊さなの?という事例をいくつか見てきたので、「豊かな暮らしの提案」とか言われると眉にツバを付けて聞いてしまうのです。
家族の気配を感じられる住まい?
私が実際に見て疑問を感じた事例の一つを紹介します。
家族の気配を感じられる家というコンセプトを大事にしている建築家が、施主に対して提案したのは、ドアや間仕切りのないトイレでした。
有名建築家の自邸に、室内の間仕切りのない家というのがあり、そこで実際に生活していた娘さんが、トイレで用を足す隣で洗面台で髭を剃る父親と会話をしたりする日常だったなんてエピソードがありましたが、その思想に感化された結果の一つとして間仕切りのないトイレでした。
家族の形は色々あるし、その様な住まい方を否定するつもりはないのですが、その生き方を選ぶか否かは設計者が選ぶのではなく、施主が選ぶ事だと思います。
おおよそ平均的な年頃の娘さんなら、トイレでの用足しを家族とはいえ他の人に見られたいとは思わないと思いますが…
その物件の施主は、その提案に反対したのですが、その建築家は何とか押し問答してドアと壁はあるけれど、壁の一部が抜けていて、トイレの中の音や臭いがトイレの外にもまるっと通る家でした。確かにトイレの気配はとても感じますが、ドアを付けて壁に穴を空けて何がやりたかったのかいまだに私には理解が及ばないし、施主さんの複雑そうな顔は印象に残っています。「先生、頼むからトイレに仕切りとドアを付けてくれ」と頼んだ結果の妥協点なのだそうです。
ちなみにその物件は、某建築雑誌に紹介されました。
私が実際に経験した事例でしたが、これは割と極端な例かも知れません。
しかし、実は世の中そんな風な建築が割と至る所にあったりします。
その昔、テレビ東京で放送していた『完成!ドリームハウス』というテレビ番組では、奇をてらったような家がたくさん登場して、ネット掲示板では大変な盛り上がりを見せたものです。
テレビの演出上、施主は大変満足しているように映っていましたが、その後手放したというお話もチラホラ聞きます。
豊かな暮らしの軸を間違ってはいけない
豊かな暮らしの提案っていうのは、家造りにおいて大事な要素です。
しかし、その豊かな暮らしの豊かさって誰が決めるのか?
言うまでもなく施主が決めることです。
ただ、建築というのは高度な技術を要するものですから、どうすれば豊かな器を作れるのかという技術は施主は基本的には持ち合わせていません。
だからこそ、専門技術を持つ建築士が実際に形として提案していくものです。
すべては施主の豊かな生活のため。
施主の豊かな生活はどうすれば実現できるのか?
建築士はこの点をしっかりヒアリングしていくことで、施主にとっての豊かな生活となるための手段を考え、ソレを設計に落とし込んでいきます。
しかし、中には先にも挙げたように「建築士が考える豊かさを施主に強要する」ケースが存在するのも事実です。
これもまた有名なテレビ朝日系列のテレビ番組である『大改造!!劇的ビフォーアフター』では、現在の住まいの問題点を改善し、より住まいやすい家にリフォームするというコンセプトで、様々な建築士がそれに対応していくという建築番組でした。
その中のとあるエピソードで、二軒の家を無理矢理繋げたために、家の中に段差があり、実際にその段差で転倒して怪我をした程の問題を抱えていたというものがありました。
この施主の希望は、その問題の段差を解消したいというものでしたが、出来上がってみたらその段差はなくなっておらず…
週刊誌レベルの噂によるとその後訴訟になったとか…
この事例は完全に施主の真の願いを建築士が自分の価値観を優先して無視してしまった事例です。解消したい問題が全く解消されてないのに金は払えるか!と訴える気持ちは良くわかります。
その家に住むのは誰なのか?そもそも家とは何か?
家とは生活するための器です。
それは建築士の芸術作品ではないわけです。
もちろん、パトロンのようにその芸術作品を好んで選んで住む人もいます。それはそれで需要と供給がマッチしており何ら問題はないでしょう。
しかしながら、何か勘違いしてしまった建築士の一部が、施主のための家ではなく、自己満足の家を作ってしまうパターンは残念ながらあります。
これは建築士に限った話でもなく、ハウスメーカーや工務店にも言えることです。
多くの方は家は一度しか建てないものですが、実務者は家を建てるのが仕事ですから年間何十棟という家を建てています。経験値は間違いなく高く、初めて家を建てる施主には見えないものが見えている事も多いです。
その経験と知識から、ソレはやめた方がよいとか善意でのアドバイスなどを行って、施主側が不満足となる結果を回避できるパターンはたくさんあると思います。
これも実際に見聞きした一つの事例なのですが、その施主家族の旦那さんは自宅の駐車スペースにカーポートが欲しいと希望したのですが、営業担当は家の目の前の位置だし見栄えもよくないのでお勧めしないというリアクションをしました。奥様もそれに同調し、家の見栄えが悪くなるなら要らないと言い出し、旦那さんはカーポートを諦めました。
しかし、旦那さんは愛車を大切にしておりガレージがなくてもせめてカーポートでもあれば…と思っていたところに、希望を否定され、家族にも同調されてしまったので、自分が折れることにしたのでした。
この時、営業担当がもし「なぜ、カーポートが欲しいのか?」と聞いていたら、もしかしたら運命は変わっていたのかもしれません。
旦那さんが乗っていたのはFD型RX7でした。車がタダの移動の足の人にはわからないでしょうけれども…
この時、旦那さんは自分にとっての豊かな生活の一つを削られた結果になったのでした。
長々と書きましたが、私がこの記事で書きたかったのはつまりはこういうことです。
実務者は自分の考える豊かさが、施主にとって必ずしも豊かさに繋がるとは思わないでほしいと言うこと。
施主は建築には無知なのだから、自分達実務者が導いてやらねばなんてのはただの傲りだということを忘れないでほしいということ。
豊さは、施主の人生の中に答えがある。
その豊かさを引き出し、実現できる家を提案していくことを忘れないでほしい。
秋(もう冬か)の夜長に、思ったことをつらつらと書いてみました。
2020.11.30. 追記
家ブログ仲間のクロセ氏が本記事のアンサー記事を書いてくれましたので、そちらもご覧ください。